甲州街道「内藤新宿」と「四谷寺町」を巡る、まちだ史考会の歴史散歩に参加。
先ずは、新宿歴史博物館へ。ここには新宿の歴史や文化に関するさまざまな資料がビジュアルに展示されていて、かっこうのオリエンテーションとなる。

「内藤新宿]の[内藤]は信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。また、「新宿]は、江戸時代甲州街道の第一の宿場であった高井戸に対し、新たに設けられたことからその名がついたと言われる。
内藤新宿は東海道品川宿、中山道板橋宿、日光・奥州街道千住宿とあわせて四宿と呼ばれ、江戸の歓楽街、岡場所として繁盛した。新宿も岡場所、遊郭としての歴史を持つが1958年の売春防止法の施行まで続くこととなる。

歴史博物館から先ずは愛染院へ、ここには内藤新宿の生みの親ともいえる浅草の名主であった高松喜六や盲目の学者で「群書類従」を編纂した塙保己一(1821年、76歳で没)などの墓を見ながら往時を思う。

愛染院から西念寺へ。
服部半蔵(徳川家康16将に数えられた武将)が開基した寺として知られている。
半蔵の墓(右)とともに、家康の長男で、信長の命で切腹させられた信康を弔う五輪塔(下)を見る。五輪塔には信康の遺髪が納められたと伝えられている。

この辺りは、あまたの寺が密集していて「四谷の寺町」と呼ばれている。1634年(寛永11)、将軍家光により江戸城の外堀を設置することとなり、立ち退いた寺社群が集団移転したことによるものだという。
西念寺から戒行寺へ。池波正太郎「鬼平犯科帳」の主人公火付盗賊改め方長官長谷川平蔵の菩提寺である。平蔵の供養碑を見る。
さらに、真成院、宗福寺、松厳寺などの門前を進み、多武峯内藤神社へ。内藤氏の先祖である藤原鎌足を祀る神社で、俊馬塚などを見る。家康が内藤清成に馬で一周できる範囲の領地を与えると約束したが、馬は走りすぎて死んでしまったという。その馬の供養のために建てられたという。

かつて四谷4丁目交差点付近には大木戸門が置かれていた。いまは、わずかに石碑にその跡をとどめるのみである。大木戸が設置されたのは1616年(元和2)のことで、東海道高輪とここの2ヶ所に置かれた。大坂の陣が終わったばかりで、西への備えとして置かれたものと考えられている。木戸は1792年(官制)に廃されている。

新宿御苑で昼食休憩。八重山吹がそこここに花を咲かせていたのが印象的。昼食後、「玉川上水内藤新宿分水散歩道」を通って太宗寺へ。

太宗寺は内藤家の菩提寺で、その墓所がある。門を入ってすぐ右手に、大きな地蔵尊が目にはいる。露座の金銅大地蔵尊で、江戸六地蔵の一つである。像高267cm、見る者を圧倒する。
ここにはさらに高さ5.5mの閻魔像や同2.2mの奪衣婆像も祀られていて、幕末には参詣者で賑わったという。

正受院(綿をかぶった奪衣婆で有名)を参観して、隣の成覚寺へ。
旭地蔵や恋川春町の墓等新宿の歴史を物語る碑や墓がいろいろある。その一つが「子供合埋碑」である。江戸時代内藤新宿で暮らしていた飯盛女(遊女)たちを弔うためのもので1860年(万延元年)に建てられている。「子供」とは遊女のことだという。
この寺は一名「投げ込み寺」とも言われたが、飯盛女が死ぬとその遺体がこの寺に投げ込まれたと言い伝えられている。

成覚寺から追分の交差点を過ぎ、天竜寺へ。
境内にある鐘は「時の鐘」と言われ、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに江戸三名鐘の一つと称されていた。周辺のビルとのコントラストがおもしろい。
今まで知っていた新宿とは一味も二味も違う新宿、あるいは繁栄を極める新宿の街の底に眠るものを見た一日であった。