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畑・釣り・読書、暮らしあれこれ

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茨城県旧大洋村に月3〜4回通っての菜園生活に終止符を打ちましたが、いまも退職者仲間での野菜作りを続けています。菜園のこと釣りや歴史散歩を中心に、82歳になり鈍くなってきた感性を呼び起こしながらこのブログを続けるつもりです。

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新編相模国風土記槁・畑宿村

 まちだ史考会の読書会で、「新編相模国風土記槁」東海道の村々について発表しあっています。たまたま、私が畑宿村と須雲川村を担当し、レポートをまとめました。その内容を2回に分けてこのブログにアップします。

畑宿村
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 二子山遠景(小田原城天守閣から。畑宿は左側下二子山の下にある。)

1 畑宿村の基本情報
(1) 村の位置
・江戸から23里(約92km)、江戸から23番目の一里塚(再建されたもの)がある。

(2) 村名
・【相模国風土記】(713年、和銅3年の官命に応え編纂された国別地誌)には、「畑山」とある。
・【歌枕名寄】にも畑山または麻機山として出ている。
・戦国時代前半には「畑」あるいは「畑宿」の地名が見られるようになる。
現・畑宿集落
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(3) 立場
・「立場」とは、江戸時代、街道などで人馬が駕篭などをとめて休息する所。馬などの交代もした。(「広辞苑」より)
・畑宿は、湯本茶屋へ1里、箱根宿へ1里8町の東海道中の立場であり、「民戸連住し、宿駅の如」き集落をなしていた。一般に「間(あい)の村」と呼ばれていた。
・村民は、戦国時代前半から、木製品を加工する木地挽きの仕事をしていたが、東海道が整備されると、旅人の休憩所と売店を兼ね、それら製品を街道土産として販売するようになった。

(4) 村としての歴史
・永正年間(1504〜1521)には、宿場として集落ができていた。北条早雲領として、諸役が免除されていた。早雲の小田原進出にあたって、箱根山中の民心掌握策と考えられる。
・北条氏の領国支配が確立される中で、畑宿の特権も無視されるようになり、弘治2年(1556)の住民逃散に対応して、改めて「三か条の掟」を定める。
・正保(1645〜1648)の頃には、湯本村に属していた。
・その後、畑宿村として「一村」となるが、時期は不明。「元禄郷帳」には一村として扱われている。
・明治22年5か村が合併して湯本村畑宿に、昭和2年には湯本町畑宿に、そして昭和31年には2町(箱根町、湯本町)3村(温泉村、宮城野村、仙石原村)が合併し、箱根町畑宿となり現在に至る。

(5)家数、面積、周辺
・家数は43軒
・東西23町(2500m)、南北18町余(2000m)
・東は須雲川村、西は箱根宿、南は榎木澤山・入畑澤山・弁天山等を境とし、北は二子山・火燈山を越えて蘆野湯・底倉・大平台の三村に。

(6) 産物・風習
・轆轤細工…畑宿は現在でも寄木細工の里として有名であるが、古くからろくろ細工が行なわれていた。弘治2年の朱印状から、北条早雲の時代には、既にろくろ師がこの地に定着していたことが知られる。
・山生魚、山梨子
・門松の替わりに樒…ろくろ師の習俗に関係があると思われる。その理由としてオオカミがこの香を嫌い、転じて魔が入り込むのを防ぐのだという。「風土記」によれば、畑宿のほか須雲川、湯本茶屋、底倉、大平台、仙石原、宮城野の各村も同じ風習を持っている。ろくろ師の集落共通の風習である。

(7) 領主の変遷と検地
・「古より小田原城付の村にて、貞享3年(1686)より大久保氏の領分となれり」
・検地は万治2年(1659)
・「村高」 元禄郷帳 16.449石、天保郷帳 16.582石、旧高旧領取締帳 16.449石
  ⇒ちなみに町田市域の村々の石高は、最少の広袴村で正保期84石、幕末77石、最大は木曽村(根岸を含む)で正保期308石、幕末は1027石であった。

(8) 宿内の様子
・東海道は東西に、幅2間余(約4m)、宿内を示す石垣。
・蘆野湯への道、道程28町、羊腸の険路
・高札場は、「茗荷屋」と道をはさんだ反対側にあった。

2 小名、山、坂など
(1) 小名 堀田澤(大澤川と須雲川の合流する辺り)、会所(集落の中心)、細尾(集落の上の方)。
 大平は「笈の平」のことと推察できる。甘酒を供する店が5軒あったとする。現在も1軒が営業している。
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 急坂を越えるため「間の村」の茶屋以外にも坂の上下等には、往来の人馬が一服できる甘酒小屋が設置されていた。箱根東坂には9カ所に13棟の甘酒小屋があったが、笈の平には4ないし5軒が店を出していた。

(2) 山 
  街道の南ー勘九郎山、三所山、弁天山、入澤畑山、榎澤山、文庫山、屏風山
  街道の北方ー火燈山
  火燈山の西ー二子山(下二子山は畑宿に属する)

(3) 坂
 割石坂(須雲川村との境)、大澤坂、西海子坂、橿木坂、猿滑坂、追込坂、於玉坂、白水坂、天ヶ石坂、瀧坂(蘆野湯道)
天ケ石坂
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大澤坂
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(4) 川と橋
  榎澤川(須雲川)、大澤川(榎澤川に合流)
  千鳥橋(大澤川に架かる、大澤坂近く)

3 寺社ほか
(1) 寺社
・駒形社
 創建は不明だが、村の成立に遡るといわれている。もともとは「駒形明神・駒形権現(駒ヶ岳)」をご神体としていた。境内には、箱根細工職人の進行を集める太子堂、菅原神社とともに、疱瘡神を祀る照心明神がある。明和3年(1766)、村に疱瘡が流行したので神託により村民たちが照心明神に祈ると、子どもたちの病が皆回復したという。天明3年(1783)の流行でも、子どもたちは一人も死なずに済んだので社を建てたという。
駒形社
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・山神社、愛宕社
・道祖神社
 集落の出入り口に建つ。宿場の境でもあったのだろう。像は全体に摩滅しているが、双体立像の道祖神である。
・守源寺
 山号は高榮山。集落から石畳道に通じる入口手前にある日蓮宗寺院。寺伝によれば、寛文10年(1670)に日運上人により開山したと伝える。箱根七福神の一つで、大黒天を祀っている。
守源寺
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(2) 一里塚など
・一里塚
 江戸から23里目の一里塚で、残された遺構と発掘調査の結果から復元されたものだが、石積みの円形の塚の頂部には、それぞれモミとエノキが植えられている。
畑宿の一里塚
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・施行所
 旅の人馬に無料で粥や飼葉を施すための施設、「施行所」が割石坂を登りきった所(割石平)に設置された。設置したのは江戸呉服町の商人加瀬屋友七(与兵衛)。同志者を募り自らも300両を出して東坂と西坂の2カ所に施行所を建てた。施行の内容は、1年を通じて馬に飼葉を与え、11月と12月を中心に、人足及び貧窮の旅人に粥をふるまい、焚き火を焚いて暖を提供するものであった。
・旧家「茗荷屋」
 茗荷屋は、茶屋として大名や旅人の休憩所となり、本陣の機能を果たしていた。現在は、本陣跡としての案内看板が立っている。
本陣跡
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4 間の村、「要害山」と「守り村」
(1)「間(あい)の村」
 小田原から箱根宿までの4里8町の間には、東海道に沿って7つの村があり、これらの村は「間(あい)の村」と呼ばれていた。これら「間の村」に住む人びとは茶屋を営み、あるいはわずかな山畑の耕作、木竹や茅を伐採して売り、さらに箱根・小田原両宿へ出て荷物持ち人足等に従事して生計を立てていた。
・「間の村」に課せられた義務…須雲川村の例を参照
・元々、「間の村」では、旅人の宿泊や食事をともなう休憩も禁止されていた。しかし、湯本から箱根宿に至る山道では、「間の村」の茶屋は欠かせない施設であった。中でも、風土記本文にある「茗荷屋」は、浮世絵にも描かれるほどに名を馳せていた。
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(2)「要害山」と「守り村」
・要害山とは、関所周辺の山や林を指定して、いっさいの立ち入りを禁止した区域のこと。榎澤林、屏風山、文庫山、二子山などが指定されていた。
・要害山の設定とともに、その周辺の村々を「関所守り村」(「関所附村」)に指定、箱根関所の守り村としては、湯本村、湯本茶屋村とともに須雲川村、畑宿村が指定されていた。
これらの村々は、常時要害区域を見回り、不法侵入者などがあった場合、すみやかに関所へ届け出ることが義務づけられた。
要害山に指定されると、村人たちも立ち入ることができなくなってしまう。畑宿村の村民は薪に困り、たびたび要害山から無断で炊き木を切り出し、罰せられるなどの事件もあった。

5 箱根旧街道・石畳の道
 戦国時代以前には、箱根を越える道としては湯坂道があった。湯本から湯坂山・浅間山・鷹巣山を通り、芦之湯に出て元箱根・芦川の湯へ向う、主として尾根上の道であり、これが官道であった。一方、須雲川に沿って湯本茶屋・須雲川・畑宿の「間の村」を通るコースで、いわば谷沿いのルートがいま一つの箱根越えの道として存在していた。戦国時代には、北条氏の軍用道路として重要だった。
 江戸時代に設定された箱根越えの東海道は、須雲川・畑宿のを通るコースで、谷沿いのルートである。なぜ谷沿いの道に切り替えられたのであろうか。一つは、このコースが小田原宿から三島宿間の最短距離だということ。そして、もう一つは政策的な意図があるという。つまり、江戸幕府が箱根山を江戸防衛の最前線と考えたからだ。さらには、「間の村」を維持するための水の便ということも考えられる。湯坂道では水利面で「間の村」の形成が困難だったことが考えられる。
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 谷沿いルートに道の欠点は、雨や雪が降ると大変な悪路になることであった。これを解消するために、はじめは「箱根竹」を敷き詰めて歩きやすくした。しかし、毎年敷き替えなければならず、労力や費用も大変であった。その負担は近隣の村々の負担となった。
 そこで、「竹道」から石畳の道への切り替えが行なわれた。幕府直轄領であった西坂(静岡県側)では延宝8年(1680)に石畳道にする工事が行なわれた。東坂(神奈川県側)については史料が残されていないが、ほぼ同時期だったと思われる。現在、東坂で石畳が地上に露出している区間は3.3kmである。
 石畳道は歩きやすかったのだろうか。幕末に勘定奉行をつとめた川路聖謨は「下田日記」で次のように記している。
「箱根みち、殊の外わろし、例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候、去り乍ら少しも障なし、長崎より帰り候節は、箱根にて二度ころび申し候、今日も、中間共・侍共の内に、ころび候もの多し、元来箱根のみち御普請延々に相成り居り候故、此山みちを三年歩行候わば、つるぎの山にもこまるまじ、とおもう位にわろく成りたり、雲助地獄に堕ち候わば、閻魔様つるぎの山の御仕置は行われまじ」と。
 石畳道維持の手当も行なわれていたが、その額は微々たるもので実際には修理はほとんど実施されなかった。ただし、和宮の下向(実際には中山道を通った)及び将軍家も家茂の上洛に備えて石畳の修理が実施され、今日残っている石畳はその時のものと推測されている。 
 現国道1号線は、大正9年に湯本から元箱根まで開通した。これにより、須雲川沿いの旧東海道は県道へと格下げされた。また、昭和6年にはバス道路が開削され、石畳道は寸断され、あるいは埋設された。そして、昭和35年、石畳道の史跡としての価値が見直され、東坂が国指定史跡「箱根旧街道」に指定され、保護されるようになった。

6 木地師と箱根細工
 箱根細工の起源は平安時代まで遡るといわれている。江戸時代になって、駕篭かき等の副業として盛んになり、温泉場や街道の茶屋の店先で売られるようになった。
 箱根細工には引物と指物があり、挽物は「ロクロ」を使用して作られる品物で、盆・碗・丸膳などがあり、明治以後は多くの玩具類も製作された。
 指物は、主に箱類で、その表面を寄木細工や象嵌で装飾したもの。寄木細工は、江戸時代末期に畑宿で考案されたという。寄木細工の技術を畑宿に持ち込んだのは、石川仁兵衛といわれ、静岡に出てその技術を習得した。明治18年の「畑宿共盛会趣意書」には「弘化の頃(1844〜47、実際にはそれより20年以前と推察されている)、本宿に石川仁兵衛ナルモノアリ、奇奇珍枝ノ片板ヲ集メ、花鳥風月ヲ描キ紋理相抱キ、以テ其像ヲ作ス、彫鏤法アリ、剪裁型ニ適ス。遠近喧伝ス。是レ現今ノ寄木細工ノ鼻祖ニシテ、吾ガ畑宿ハ実ニ創始ノ地タリ。」とある。




by sm-116 | 2016-09-25 18:02 | その他 | Trackback | Comments(0)

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