「南部百姓命助の生涯」を読む
著者 深谷克己(早稲田大学名誉教授)
出版 岩波現代文庫(2016年5月17日 第1刷発行)
本書は1983年に朝日新聞社から刊行されたもので、若干の新稿を加えて文庫化されたもの。
奥州南部藩の城下町盛岡の牢内で、一人の百姓が安政6年(1859)に3冊、文久元年(1861)に1冊、計4冊の「帳面」を書き上げた。これらの「帳面」にはさまざまなことが記されたが、一言で表せば、残された家族への生活を案ずる手紙、あるいは遺書という性格のものである。
これらを手がかりに百姓命助の行跡を追い、その時代の側面を浮かび上がらせたのが本書である。
ところで百姓命助とはどんな人物だったのか。命助は文政3年(1820)南部藩の太平洋岸の山間の村、上閉伊郡栗林村に生まれた。幼少の頃遠野町へ出て読み書きから漢籍までを習う。17歳から3年間は秋田の院内銀山へ出かけて働く。帰村してからは荷駄商いにも従事。34歳の時に百姓一揆(三閉伊一揆)に加わり、仙台(伊達)藩に逃散。一揆終息後1年余で出奔し出家体となるが、37歳の時に京都に行き、二条家に召し抱えられ、二条家の家来として南部藩領に足を踏み込み、捕えられ受牢生活を送り、45歳でその生涯を閉じた。
命助の生涯からいろいろなものが見えてくるが、それはこれまで認識していた近世百姓の姿とはずいぶん離れている。その一つは、百姓=農民ではないということが次第に明らかになってきているが、さまざまな職業民の実相が明らかにされていること。また、土地や身分にがんじがらめという印象も、命助の生きざまを見ると本当にそうだったのかと考えさせられる。従って「百姓一揆」も「諸業民による一揆」であったことも明らかになる。
また、百姓一揆の要求項目に、藩主の首のすげかえや藩からの離脱(他藩への組み入れ、または幕府直轄地化)などの要求もあったことに驚く。
いずれにせよ、新しい目を開かされる思いで読む。