旧高ヶ坂、南大谷村を尋ね歩く(4月27日)
町田駅から芹が谷公園に向かう。住宅街の一画に母智丘(もちお)神社がある。日向国北諸県郡庄内町の母智丘大神から分霊され、大正8年に創建されたという。商売繁盛、子孫繁栄などの神として崇敬されている。
高ヶ坂は、名前の通り山と坂である。多摩丘陵の山間のわずかな谷戸で田を耕していて決して豊かではなかった。
高ヶ坂にはいって最初に訪れたのが熊野神社。18世紀初期の創建と推定され、関東大震災で倒壊後再建され、村の鎮守として崇められてきた。
熊野神社から高ヶ坂石器時代遺跡へ。
今は、ここが遺跡であることを示す石柱と敷石住居址しか見ることができないが、この遺跡の発見は大正期までさかのぼり丘陵地帯における住居跡発見の第1号として大正15年に国の史跡指定を受けている。「高ヶ坂式土器」などという言葉があったことを思い出す。
住居遺跡の他土器片も数多く出土したとのこと。
次に訪れたのが祥雲寺。
ご住職から寺の歴史や現状について話しを聞く。本堂は建て替えられて新しくなっているが、創建は16世紀にまで遡るという。ご本尊釈迦如来座像は室町時代15世紀の作とのこと。
建て替えられる前の本堂は、現在は観音堂として平安中期と推察される聖観音像を安置している。なお、ちょうど寅年に開帳されるということで直接拝観することができた。
もとは祥雲寺の大門があったといわれる所にあるのが高ヶ坂地蔵堂である。間口1間奥行き1.5間の小さなお堂が建っているが、お堂のまわりには57基の庚申塔や道祖神などが集められている。
この後、松葉公園、松葉稲荷神社などを見学し、恩田川を渡り鞍掛の松からかしの木山自然公園へと足を運ぶ。
この辺りは鎌倉古道の名残がみられる。新田義貞が鎌倉に進軍の際にここ鞍掛で休息したという。鞍掛の松とは義貞の馬を繋いだ松だと伝えられている。(今はその松は見当たらず、道標がたっている。)
かしの木山公園で昼食。そして南大谷にはいる。
雨がかなり本格的になる。そんな中、南大谷天神社へ。17世紀の創建で、村の鎮守社として今に至っている。なおここには神社創建と同時に虚無僧寺南松寺も建てられ、天神社の別当管理を行っていたが、明治になり廃寺、今は観音堂と歴代住職の墓にその面影をかろうじて見ることができる。
南大谷村には江戸時代「加賀の千代女とお江戸の浜藻」と比較された五十嵐浜藻の出身地であり、墓も残されている。墓は住宅街の中にある。
高ヶ坂も南大谷も私の住んでいる金森の隣町に位置するが、なにも知らないに等しいことをあらためて認識させられた一日だった。