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畑・釣り・読書、暮らしあれこれ

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茨城県旧大洋村に月3〜4回通っての菜園生活に終止符を打ちましたが、いまも退職者仲間での野菜作りを続けています。菜園のこと釣りや歴史散歩を中心に、82歳になり鈍くなってきた感性を呼び起こしながらこのブログを続けるつもりです。

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5、神社・仏閣


汁守明神社 除地、詳ならず、村の中央にあり、本社は拝殿へ造りかけて大さ二間に四間巽向なり、祭神を伝へず、本地は不動にて木の立像一尺ばかりなるを安せり、行基の作と云、此社に鳥居を立、例祭八月二十八日なり、村内金剛寺の持、

金剛寺 除地、二畝、村の西にあり、新義真言宗、多磨郡坂浜村高勝寺門徒なり、墨仙山と号す、開山を詳にせず、客殿五間に四間南に向ふ、本尊大日如来、木の坐像にて長一尺五寸ばかり、行基菩薩の作なりと云傳ふ、当寺は祈願のわざを専らにして滅罪を事とせず、八幡社 客殿の東の方にあり、観音堂 同く東の方にあり、如意輪観音にて長一尺ばかり、堂は一間半に二間半なり、毘沙門堂 行基の作にて、長七寸ばかりの坐像なり、

西光寺 除地、村の中央にあり、禅宗曹洞派、片平村修広寺の末山なり、雲長山と号す、開山孤岩伊俊、嘉吉三年(1443)十月十日寂す、開基は西庵雲長と云人なり、文明元年(1469)五月二十九日寂す、石階九十八級を登りて客殿を建、九間に六間半巽向なり、本尊は釈迦の像なり、村民の持伝へし古き水帳によれば、観音免と記してあり、其頃の本尊観音なりしが、いつの頃にか、釈迦の坐像長八寸ばかりなるを置、運慶の作なりと云、又今僧坊とて、石薬師を安せし庵をこの辺に立置しを、後廃してかの薬師は当寺の客殿に安す、長一尺許の坐像なり、(風土記・黒川村より)


(1) 汁守神社

 汁守神社はその昔、「汁盛」とも書かれていた。その由来は、府中の大國魂神社の末社として「くらやみ祭」の膳部の汁ものを調整したことにあったと伝えられている。隣の真光寺(町田市)には「飯盛神社」があるが、「汁」と「飯」で一対の役割を担ったという。現在の祭神は、保食命(うけもちのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・素戔嗚尊・応神天皇となっている。

 創建は不詳だが、天明21782)11月に神像を造立し、再建したと伝えられている。大正3(1914)年、日枝神社外2社を合祀した。

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(2) 西光寺

 「風土記稿」には、開山は孤岩伊俊、開基は西庵雲長で文明元(1469)年に寂と記されている。応仁の乱の2年後のあたり、地方豪族や土豪が庶民のために寺を建てた時期だという。

 本尊は釈迦坐像で運慶の作と伝えられている。境内にある石仏の一つである石薬師の坐像は、川崎市内最古の石仏であり、寛文8(1668)年牛哲によって作られた。令和3年に川崎市の地域文化財に指定された。

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(3) 金剛寺(廃寺)

 真言宗墨仙(くろかわ)山金剛寺は、上黒川の毘沙門大堂の近くにあったが、今は廃寺となっている。開山・開基を含め、詳細は伝えられていないが、汁守神社の別当も勤めていたと記されている。

 明治維新で廃寺となったため、この寺の檀家の人たちは坂浜の高勝寺の檀家になった。金剛寺の境内にあった毘沙門堂には行基の作と伝えられる毘沙門天が祀られていた。

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 旧金剛寺跡?に残る石仏


6、明治以降の歩みの中から

(1) 行政上の推移

「大区、小区」制から郡区市町村制へ。

 行政区分の変遷については、明治の初めは目まぐるしく変わり、明治7(1874)年には大区・小区制に改められた。黒川村は第7大区8小区となった。しかし、これも長続きはせず、明治11(1878)年郡区町村制に切り替えられ、かつての村を行政単位として復活させた。これにより、黒川は神奈川県都筑郡黒川村となった。

柿生村の誕生

・明治22(1889)、町村制が施行され、黒川をはじめ栗木・片平・五力田・古澤・萬福寺・上麻生・下麻生・王禅寺・早野の10ヶ村で新しい村を作ることになった。新しい村の名前については「柿の生産すこぶる多きをもって」柿生村と名付けられた。なお、岡上村についても、それまでの村のまま柿生村と組合村をつくることとなり、柿生村外一ヶ村組合が誕生した。

 こうした動きの中で、黒川は神奈川県都筑郡柿生村(大字)黒川となる。

川崎市に合併

 昭和14(1939)年柿生村外一ヶ村組合は、川崎市に合併する。これにより、黒川は神奈川県川崎市黒川と表示される。なおこれにより、1000年以上続いた「都筑郡」ならびに50年続いた「柿生村」の地名が消えてしまった。「柿生」の名称は、駅名、学校名などに辛うじて残されている。

多摩区そして麻生区に

 昭和47(1972)年、政令都市移行に伴い区制がしかれることになった。黒川をはじめ旧柿生村は多摩区に所属することになったが、川崎市北部の人口増により昭和57(1982)年には麻生区が誕生し、黒川は新区に属し、川崎市麻生区黒川となった。その後、小田急多摩線の開通にともない、区画整理による宅地増もあり、南黒川(1979)、はるひ野(2006)という新しい町も誕生した。

新しい町へ

 黒川は、川崎市の最奥地として豊かな自然環境の中で、農業を中心とした生業・暮らしが脈々と続けられていた。しかし、開発・宅地化の波は、そうした姿をも飲み込んで進行した。

 昭和49(1974)年、新百合ヶ丘駅が開業し、同時に新百合ヶ丘駅から小田急永山駅まで、小田急多摩線が開通し、五月台・栗平とともに黒川駅がつくられた。同じ年、京王相模原線若葉台駅も開業した。さらに、平成16(2004)年には、小田急多摩線の新駅「はるひ野」が完成する。

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 上は黒川駅、下ははるひ野駅

戸数・人口の推移

・「風土記稿黒川村」(1830年頃) 民家51

・武蔵国郡改革組合限石高(天保111840) 家数52

・壬申戸籍(明治5) 家数62戸、人口363

・「神奈川県都筑郡黒川村地誌(明治21)

  戸数 69戸、人口 415(男・218人、女・197)

・大正7(1918) 戸数は78戸、人口は590

・昭和62年には315世帯、1034

・現在の世帯数、人口(20226月現在)

  4,564世帯、11,373

  内訳 はるひ野(2,804世帯、7,801)、黒川(1,617世帯、3281)、南黒川(143世帯、291)


(2) 学校の歴史・黒川分校

 江戸末期には、市川角左衛門私塾があり、石碑が残されている。それによると、「(市川翁は)30年にわたり黒川村で教育に尽くし、この村から字の読めない人、書けない人を無くした。」とある。明治5年にこの市川塾に通っていたのは男子30人、女子10人だった。

 明治5年、学制が公布され、市川塾は「黒川学舎」となったが、引き続き市川角左衛門さんが先生として子供たちの教育に当たる。明治8年には、黒川学舎という名前が小学黒川学校となる。明治12年には教育令が公布され、黒川村立黒川学校となる。明治14年には学校は市川宅から立川宅に移る。さらに明治20年には、汁守神社裏に学校が新築された。明治22年には柿生村が誕生し、学校の名前は柿生村区立黒川学校と改められた。そして、明治25年には、校名が柿生村区立尋常黒川小学校と変わり、初めて小学校と呼ぶようになった。高等科に進む子どもたちは鶴川の高等小学校に通っていた。

 明治40年には就学年限が6年になったが、5,6年生は尋常義胤小学校(柿生小学校の前身)に通うこととなった。大正2(1913)年には尋常黒川小学校は廃校となり、義胤小学校黒川分教場となった。大正15年に黒川と栗木の境の山の上に校舎を新築、栗木の子どもたちも黒川分教場に通うことになった。

 昭和16年、国民学校令により、川崎市柿生国民学校黒川分教場と名を変えた。戦後、昭和22年には川崎市立柿生小学校黒川分校に改められ、校舎も増築され6年生までがここで学んだ。柿生小学校が現在地に移り、またバスの開通などもあり、昭和38年には4年生からは本校に通うこととなり、黒川分校は1年生から3年生までが通学することとなった。都市化の波は、黒川や栗木地域にも押し寄せ、昭和58年には新しい学校・栗木台小学校が開校し、「黒川学舎」から109年、分校としての36年の歴史にピリオドが打たれることとなった。

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   いまだに黒川分校の名前が使われているバス停


(3) その他

・柿生発電所

 川崎市の水道は、相模川から取水され、導管は黒川を通過するが、字広町に急下水路水槽が設けられており、その落差を利用した県企業庁の発電所がある。 

・民藝俳優座

 字宮添には、故宇野重吉氏で有名な民藝俳優座の稽古場があり、市民との交流も行われている。

 また、同地域には読売日本交響楽団の練習場、日本オペラ振興会の稽古場などもあり、芸術・文化の集積も見られる。

・マイコンシティーⅡ(黒川駅周辺)

 昭和63(1988)年川崎市により整備完了。情報・電子産業の研究開発拠点をめざすとともに、京浜工業地帯全体の発展をめざし、ハイテク企業の積極的誘致と研究開発機能集積が行われた。


*参考資料

1、「ふるさとは語る」ー柿生・岡上のあゆみー 1989年、柿生郷土史刊行会

2、「いなだ子ども風土記・農業編」1969年 いなだ図書館

3、「川崎史話」上・中・下 1968年、小塚光治

4、「柿生村・岡上村 郷土史」(再版) 1969年、柿生小学校

5、「柿ふる里」 2020年、ふる里を語る柿岡塾

6、「麻生 郷土歴史年表」 2009年、小島一也

7、「川崎市多摩農業共同組合史」 1969年、川崎市多摩農業協同組合

8、「川崎の町名」 1991年、日本地名研究所編、川崎市

9、「川崎市史」 1968年、川崎市役所

10、「川崎市史 資料編1」1988年、川崎市

11、地域読本「ふるさと」 2002118日 栗木台小学校

12、「ふるさと柿生に生きて」〜激動80年の歩み〜 20063月 柿生昭和会

13、「地図でたどる思い出のふるさと〜柿生・岡上の歩み〜」 20084月 柿生・岡上百年会

14、「くろかわ」 平成18528日 黒川特定土地区画整理事業地権者会


<書き込み中>


# by sm-116 | 2023-07-30 13:49 | その他 | Trackback | Comments(0)

4、産物


 産物黒川炭 村民農業の暇には毎年九月より焼始て、三月を限とせり、黒川炭と唱えて、焼ことは当郡又は多磨郡にもあり、当村其下なるべし、このことはいつの頃より焼そめしことは伝へざれど、近きことなるにや、(風土記稿・黒川村)


(1) 黒川村を含む柿生地域の産業

「新編武蔵風土記稿」は、「総説」に都筑郡の「土産」(土地の産物)として、柿と炭を取り上げて、以下のように述べている。いずれも柿生地域の土産である。

「柿 禅寺丸と称して王禅寺村より出るものを尤よしとす、今はそこにもかきらすをしなへて此辺を産とす、村民江戸へ運ひて余業とせり、其実の味すくれて美なり、もと王禅寺丸と唱ふべきを上略して禅寺丸とのみよへり、形も他の柿とは異なり、」

「黒川炭 黒川炭と唱ふることは黒川村より出るをもてなれと、今は其村にもかきらす此ほとりよりして多磨郡にも及へり、村民農業の暇に毎年九月より焼始て翌年三月を限りとせり、」

 柿と炭とともに柿生地域の「土産」として、農民の暮らしを支えたものとしては養蚕がある。

 養蚕()とはカイコ()を飼って、その繭から生糸()を作ることである。養蚕の起源は中国大陸で、日本には弥生時代に伝わったと言われる。しかし、国内生産では需要を満たすことができず、江戸幕府は養蚕を奨励し、技術開発も進み、幕末には良質な生糸が生産されるようになり、開国後は日本の主要な輸出品となった。

 そこで、黒川村に焦点を合わせつつ旧柿生村の禅師丸柿、黒川炭、養蚕業の様子について、江戸時代を中心に近代の様子も併せて資料をたどってみたい。


(2) 黒川炭について

 黒川炭については、「風土記稿黒川村」にあるように、都筑郡・多磨郡の村々で広く焼かれていた。

江戸に近く、雑木林の多い多摩丘陵の村々では、主に9月から3月の農閑期に炭を焼く農家が多く、江戸や布田宿(調布)などに出荷していた。「黒川炭」は品質がよく、名も通っていたので、この地域(都筑郡、多摩郡など)で焼かれた炭はなべて「黒川炭」の名で流通していた。

 もともと江戸では、佐倉炭が上質の炭とされたが、その焼き方が江戸から甲州街道に沿って各地に伝えられた。そして、黒川炭という銘柄品が誕生したが、黒川では、上質のカマドの土を求めて努力を重ね、関東ロームの赤土の下の層の土が適していることを発見し、これにより上質の炭を焼けるようになったという。

 江戸時代の中頃から、江戸の人々の暮らしも豊かになり、部屋には畳が敷かれるようになった。それにともない暖房には木炭が使われるようになった。江戸への木炭の供給は水上輸送が主で、千葉の佐倉炭、相模国の津久井炭は舟運によるものであった。それに対して黒川炭は比較的江戸に近いことから陸運によった。しかし、江戸に近いとは言え、江戸の運ぶだけでも一日がかりで、当初はそれを行商して販売していた。その後、江戸で拠点となる店が開けるようになった。

 『江戸竹木薪問屋仮組名簿』には「松屋町嘉右衛門借地 栗木屋弥兵衛」

 『江戸炭薪仲買人名簿』には「松屋町茂兵衛店 黒川松兵衛」らがそれで、これにより行商の労はなくなった。

 黒川では最盛期には15軒あまりの農家で炭を焼いていた。炭を焼く釜は土がまで、大きな山を持っている場合は、地盤の良い場所に個人でかまを作り、それを何年も使っていた。共同で山を買って木を伐り焼くときは、伐採する山にあわせて場所を選び、その年だけ使うというようだった。

 炭の原料の薪は「クヌギ」や「ナラ」の木が使われ、特にクヌギは良質な炭になった。クヌギやナラは一度伐るとその後早くて10年、条件によっては12年くらいかけないと、炭焼きに使えないので、計画的な木の伐採、下草刈りなどに留意したという。

 かま出しされた炭は4貫目(15kg)入りの炭俵に入れて出荷した。炭俵は茅を使って編んで作ったが、この作業は主に農閑期の女性の仕事だった。炭の使用も時代とともに広がっていった。暖房や燃料として使われたのはもちろんだが、特に養蚕が盛んであった地域では、春や秋の蚕室の暖をとるためにも多く使われた。

ちなみに、明治20年頃の黒川村の木炭の生産高が7000(黒川村村誌)という数字が見られるが、同時期の柿生全体の生産高が3万貫であり、黒川がその中心であったことがわかる。

 ブランド名をはせた黒川炭も、都市ガス・石油・プロパンガスなどの化学燃料におされ、1987(昭和62)428日、黒川で最後(川崎市で最後)の炭焼きがまの火が入れられ、黒川炭の歴史の幕が閉じられた。


(3) 禅寺丸柿

 禅寺丸柿に関する伝承については「風土記稿」王禅寺村に記載されていて、すでにレポートされているのでここでは触れない。

 江戸市場では慶安の頃(16481652)から、柿の王座に位置したという。その頃は馬の背に六貫目(22.5kg)入り3籠をのせて江戸へ運んだとのことです。そして、池上本門寺の御会式(日蓮上人入滅の1012日を記念する祭り)には、ちょうど最盛期の禅寺丸柿が露天に並び、御会式を盛り上げ、都筑や多摩の農家をうるおした。

 王禅寺村の明細帳によると、禅寺丸柿は村の最重要産物で、年に200260両もの収入があった。ただし隔年結果なので平均すると150両ほどで、これでも大変な金額だった。江戸時代の禅寺丸柿の村ごとの生産高は不明だが、柿生村域の明治20年の記録が残されている。それによると

  萬福寺村  5駄  出荷先(記載なし)

  古沢村   60駄  出荷先(記載なし)

  片平村  350駄  出荷先(東京方面)

  栗木村  200駄  出荷先(記載なし)

  黒川村  300駄  出荷先(東京方面)

  下麻生村 150駄  出荷先(東京方面)

  岡上村  1500駄  出荷先(東京方面)   

  (1駄は馬1頭に背負わせる重さで36(136kg)を基準とする。)

となっており、黒川村も東京方面へかなりの量出荷していたことがわかる。

 江戸時代には、馬の背に籠をつけて運んだが、明治になってからは神田の問屋まで手車にのせ、引いていった。神田には2030軒の問屋があった。黒川の場合も、カキカゴに入れて手車で新宿方面に出荷していたことが記録されている。大正の中頃には、荷馬車で運び、その後各村ごとに集荷しておくと、市場のトラックが来てくれるようになった。昭和2年に小田急線が開通すると、柿生駅から電車を使って貨物として出荷するようになった。

 禅寺丸柿の生産額は、明治から大正にかけて徐々に上昇し、大正10年にはピークに達したが、大正末期から急減している。

 柿生における柿の生産額

年度

生産量

資料

生産額

明治20

450トン

推計


大正 6

750トン

「柿生村岡上村郷土誌」

44,000

大正10

938トン

  〃

90,000

大正12

225トン

  〃

42,000

大正14

188トン

  〃

36,000

昭和 4

135トン

  〃

36,000

昭和30 

113トン

多摩農協史


昭和35

124トン

  〃


その理由について、「柿生村・岡上村郷土誌」(昭和7年、柿生小学校)は次のような理由をあげている。

  1、霜害を著しく受けたこと

  2、円星型落葉病及びヘタ虫の被害甚しきこと、

  3、木の老衰甚しきこと、

  尚、結果不良の為大木の多く伐採せられたるも産額減少せしめたる原因なり

 禅師丸の市場性はなくなってしまいましたが、今でも黒川の農家の庭先などでは、秋の日に赤く照らされた禅師丸柿を見ることができる。


4) 養蚕

 黒川では、炭や柿と並んで江戸時代から養蚕が盛んだったが、明治になり生糸の輸出が盛んになると、さらに多くの農家が養蚕に手がけるようになった。年表から、黒川の養蚕に関わる事柄を取り出してみよう。

 ・文化13(1816)年 黒川村で養蚕が盛んになる。

 ・安政4(1857)年 黒川で撚り糸業が始まる。

 ・大正7(1918)年 黒川養蚕組合が設立される。

 ・大正13(1924)年 柿生村の養蚕戸数480戸、46千キロの生産量(都筑郡で第1位)

 ・平成3(1991)年 黒川で養蚕の灯が消える。

 黒川では、ほとんどの農家が養蚕をやっていた。もともとは蚕種から育てていて、春・夏・秋・晩秋・晩晩秋と5回も繰り返して育てていた。養蚕の仕事は、農作業の合間をぬう大変な作業だったが、短期間に大きな現金収入がえられるので頑張って取り組んだ。蚕は親しみを持って「おこさま」とか「おかいこさん」などと呼ばれていた。

 まゆは、製糸会社や問屋に売り渡していたが、大正12(1923)年の関東大震災を契機に長津田の乾燥倉庫に引き渡されるようになった。また、繭を出荷するだけでなく、農閑期に自分の家で繭から生糸を取ることもあった。さらに黒川には、幕末には生糸を撚り合わせて糸を作る家も出てきて、多い時には6〜7軒もあったという。こうなると黒川で取れた繭だけでは足りなくなり、町田の「二・六の市」の日に買いに行ったりもした。

 日本の重要な輸出品であり、黒川を含むこの地域の農家の暮らしを支えてきた養蚕も、第二次世界大戦下の食糧増産と、戦後のナイロンやビニロンなどの化学繊維の登場により衰えてしまった。昭和30(1955)年頃、養蚕をやっていた柿生の農家は10戸くらいのものだった。そして、60(1985)年には、黒川の越畑和男さんが川崎市内唯一の養蚕農家という状態になった。この越畑さんも平成3(1991)年には養蚕をやめ、黒川の(川崎の)養蚕の灯が消えた。


(5) 新たな農業の振興

 養蚕に代わって、黒川地区で力を入れてきたのが、イチゴであり、キュウリ・トマトであり、梨の栽培にまで取り組んできた。その他花卉や植木などを手がける家もあり、さらには酪農や養豚、養鶏も盛んに行われてきたが、都市化の波の中で新たな模索が始まっている。

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            梨畑

二つの営農団地

 黒川には、黒川東と黒川上の二つの営農団地がある。都市化の波の中で、農業を続けるための基盤が営農団地を生み出した。

 「黒川東営業団地」作りは、昭和52年に始まり、丘陵地の約18ヘクタールが整備され、農地となった。ここには6

5000㎡の温室に促成トマト、抑制キュウリなどの栽培が行われ、路地では柿・栗・梨などの果樹や野菜が栽培されている。都市住民(特にこどまたち)が土に親しむ場として、さつまいも掘りや落花生掘りなどに活用されている。

 一方、「黒川上営農団地」のある地域は、昭和46年に農業振興地域に指定され、昭和53年から土地改良総合整備事業を開始した。水田の1区画面積を倍以上に広げ、農道を整備し、また6棟の温室が作られ、野菜栽培が行われている。

セレサモス麻生(黒川)

 JA川崎直営の大型農産物直売所。平成20(2008)年に、農業従法の提供と農業者と都市住民の交流拠点として黒川に建設された。川崎市内でとれた農産物を直売している。

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            大型産直店「セレサモス」

明治大学黒川農場

 2012年に開設。総面積12万㎡の広大な敷地に圃場、温室、展示場、研究室などの施設を備え、明治大学生田キャンパスに近いというメリットを活かし通年的な学習・研究の場として活用している。具体的な活動として、未来型「アグリ・エコファーム」志向の先端的研究、生涯学習講座「アグリサイエンス講座」の開催、里山実習などが行われている。地域住民・市民等連携も大事な視点として掲げている。




# by sm-116 | 2023-07-24 20:39 | その他 | Trackback | Comments(0)
1、村の概要

 黒川村は、郡の北にあり、江戸日本橋へは凡八里余の行程なり、民家すべて五十一軒、村の四境、東は多磨郡平尾村に接し、西は同郡小野路・乞田の両村にさかひ、南は本郡栗木村多磨郡真光寺村に隣り、北は坂浜・蓮光寺の二村につづけり、凡東西へは二十八町余、南北十七丁、村内すべて高低あり、土性は赤土野土或は真土にて田畑等分なり、村民蚕を育を業とす、(風土記稿)


(1) 地名の起こり

 黒川の地名の由来についてはいくつかの説がある。皮の色が黒かった「黒皮炭」からクロカワになったという説。谷戸から流れ出る谷川がおよそ3キロも田んぼの畔(クロ)を流れていたことからクロカワの地名が生まれたという説、黒川を流れる三沢川が澄んでいて黒くてすべすべした石が見えたのでクロカワの地名が生まれたとする説などである。

 黒川の地名が歴史上初めて見られるのは「黄梅院文書」で、貞治6(1367)年御仁々の局という女性が小山田庄黒河郷と呼ばれた地を所有していたことが記されている。


(2) 黒川村の概観

 黒川は多摩川の支流・三沢川の流域に含まれ、柿生の西端で、同時に川崎市の最西端でもあり、北は東京都稲城市、西は多摩市、そして南は町田市に接している。黒川は、川崎市域としては最も自然の残っている土地である。

 「東」「宮添」「広町」の3字が三沢川を中心ににして南西から北東に、一連の谷戸を展開している。川の左岸には「谷ツ」「柳之町」「海道」「西谷」そして水源の「明坪」など五つの谷戸があり、田畑が広がっている。黒川の面積は約191ヘクタールだが、およそ半分が田畑なので一見より農耕地が多いことがわかる。黒川は川崎市域の最北部であり、海抜は最後部の丸山で148.77メートルである。これは、川崎市の最後部でもある。北東部が三沢川に沿って開いているが、それ以外は小山に囲まれている。

 ・黒川の標高の高い所

  多摩市諏訪との境(海道谷戸) 144.32m、町田市小野路との境(明坪) 138.75m

  黒川駅東 120.98mなど

 字宮添には鎮守の汁守神社と曹洞宗の西光寺があり、西谷には毘沙門堂があった。婆婆尾根には黒川分教場があり、黒川と栗木の小学校3年生までが通学していたが、昭和58年の栗木台小学校の開校により閉校となった。

 ・黒川の地目別の面積は、以下の通りである。(昭和5)

   田  288710

   畑  588328

   山林 830318

   以下、雑種地 10歩、原野 9213歩、宅地 2143


(3) 黒川村の原始時代から中世まで

原始・古代の黒川

 黒川東遺跡(営農団地)から石刃(小刀)と搔器(皮を なめす時に脂肪を取り除くために使われたと言われている)が発見されたが、その層は2万年前の姶良火山の噴出物であり、2万年前(先土器時代=旧石器時代)にはここに人間が住み、生活していたことがわかる。

 また、同遺跡からは縄文初期の土器や石器も多数出土し、また縄文中期の住居趾も確認されている。

 この他にも、黒川丸山遺跡、宮添遺跡などからも縄文時代中期を中心とする遺跡や住居趾が出土している。

中世の黒川

 ・御仁々局

  黒川郷は小山田荘に属していたのが、いつの間にか御仁々局なる女性(鎌倉公方の縁者) の領地になる。御仁々局領が 土豪らによって侵害されたため、鎌倉府に訴える。貞治3(1364)局の訴えが認められたが、この土地を維持していくこ とは容易でないとして応安5年(1372)までに円覚寺塔頭の黄梅院に寄進してしまう。その後、至徳4(1387)年高倉中務少 輔なる者が、黒皮郷の所有権を主張したが、同年3月、鎌倉府はこの訴えを却下している。黄梅院領としての黒皮郷の名 が文書に見えるのは15世紀初頭までで、その後は見られない。


2、領主と村高


【小田原北条家人所領役帳】には小山田庄黒川二十八貫四百十三文小山田弥三郎と記せり、御入国の後元和元年(1615)大阪御陣の戦功により、駒井右京進親直が采邑に賜はれり、今も子孫藤十郎が知る所なり、検地は明暦元年(1655)にありしかど、その人の姓名を伝へず、(風土記稿)


1) 後北条時代の黒川

 関東管領の内紛に乗じて、相模・武蔵を拠点に戦国大名化した北条氏は、早雲・氏綱・氏康と関東に根を張り、支配各地で検地を行い、その支配を強めた。

 小田原所領役帳【他国衆】に

   一   小山田弥三郎(抜粋)

    九拾六貫六百三十二文  小山田庄成瀬 癸卯検地

    二十八貫四百十三文       黒川 同

とあるように、黒川でも検地が行われた。しかし、天正18(1590)年、秀吉に攻められ半世紀にわたる後北条支配にピリオドがうたれた。


(2) 後北条氏から徳川支配地へ

 天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めによって、北条氏は滅び、徳川家康が関東に封じられた。家康は江戸を拠点として東国の経営を始めた。家康は江戸周辺の地を直轄領または旗本領にして守りを固めようとした。

 黒川は、元和2年(1616)駒井親直の知行となった。親直の先代は甲斐武田氏の家臣だった。上野国、相模国高座郡などを合わせ、千八百石の旗本で、都筑郡内では川井村も知行地だった。駒井家は江戸時代を通じて変わらず単独で黒川村を領有した。


(3) ()高の変遷

 ・武蔵田園簿 正保4(1647)年 90(内、田43石、畑47)

 ・武蔵国郡郷帳 永禄15(1702)年 260.702

 ・同上 天保5(1834)年 260.702

 ・武蔵国郡改革組合限石高 天保11(1840)年 260.702石、家数52

 ・旧高旧領取調 明治3(1870)年 260.715


(4) 組合村

 文政10(1827)年寄場組合村が作られ、黒川村は小野路寄場組合に入る。小野路寄場組合には多摩・都筑両郡にまたがる36カ村で構成され、柿生の村々も全てこの組合に包含された。


(5) 現在の黒川

 川崎市麻生区黒川、南黒川、はるひ野1〜5丁目(資料1・町丁別地図参照)


3、村の様子


高札場 鎮守汁守祠の西にあり、

 小名 柳ノ町 ろうば 以上二ヶ所共に北の方をいふ、 七ツ谷 西の方を云、 すくも塚 これも西の辺を云、丘の如くに見ゆ、今は丸山といへり、堀切 南の方をすべて唱ふ、新井 字䑓ともいへり、東の方なり、今僧坊 村の中央なり、昔はこの辺に石薬師ありて側に庵あり、この字は其庵の遺名なりと云、今僧坊の文字解がたし、伝への誤あるべし、此坊後に西光寺へ移せりなどもいへり、

川 此村内に七ヶ所の谷あり、其所を始として、多磨郡坂浜百二村より流れいづる清水合して一流となり、村内をながるること凡二十八町にして坂浜村へ入る、流末にては三沢川と云、所によりては用水にも引用ゆ、されど村内多くは天水場にして旱損の地なり、(風土記稿)


(1) 高札場

 汁守神社の西、現在のセレサモス麻生店の付近にあった。(資料2参照)


(2) 小名と字名(資料2参照)

 風土記稿には七つの小名が記載されている。それは家(集落)が散在していた証である。農民の生活上は、場所を示すには小名ではなく、字名が使われていたようである。字にも、明治以降改めて使われるようになった「字」と、暮らしの中で使われ続けてきた「旧字」がある。「黒川村地誌」には、字名について以下のように記載されている。

 字宮添 (旧字)宮之前、宮之西、堀切、太田屋敷、栗木道、才ノ神、宮之向、宮ノ下、 

     灯篭場、腰巻、寺ノ前(2678畝余)

 字 東 (旧字)神明下、新井、平尾道、前田、向田(1716畝余)

 字谷ツ (旧字)小田、牢場(2548畝余)

 字柳之町 (旧字)柳町、池谷(1937畝余)

 字海道 (旧字)海道、鷹ノ巣、すくも塚、折敷沢(1798畝余)

 字西谷 (旧字)摘田、橋場(2551畝余)

 字広野 (旧字)広町、田地山、小河原(1468畝余)

 字明坪 (旧字) 明坪、石神、七谷(1728畝余)

                          *  、小名と一致する字名

(3) 三沢川

 柿生を流れている片平川、麻生川、真福寺川、早野川は鶴見川系だが、黒川を流れる三沢川だけは多摩川系である。三沢川は、全長15キロメートルほどの川であるが、黒川各地の谷戸から豊富に湧き出る水を集めており、さらに坂浜の谷戸から湧き出る水も合わせ、水量がいつも一定している。

 黒川には28ヘクタール余りの水田があったが、ほとんどは谷合から流れ出る清水(自然水)によって 耕作してきた。


(4) 黒川への(からの)道

「鎌倉道」

 鎌倉に向かう鎌倉道は、信濃方面から鎌倉に向かう「上ノ道」、奥州方面からの「中ノ道」、そして房総・常陸方面からの「下ノ道」が中心だった。武蔵の中心であった府中は「上ノ道」は多摩市の貝取辺りから枝分かれした道が「早ノ道」呼ばれ、黒川や栗木、岡上を通り「中ノ道」とつながっていた。

「布田道」(瓜生黒川海道)

 黒川は町田市の小野路町と隣接している。小野路は、鎌倉時代は「上ノ道」の宿場だった。江戸時代になると、府中・小野路・厚木・伊勢原・大山を結ぶ大山街道の宿として栄えていた。江戸時代になると、この小野路宿から甲州街道の布田を結ぶ「布田道」があり、江戸に向かう一番の近道であった。布田宿には大きな炭問屋があって、「黒川炭」はこのートでも江戸に運ばれた。

「津久井往還」

 三軒茶屋方面…多摩川登戸の渡し…登戸…生田…弘法松…上麻生山口谷戸…柿生駅前通り…竹の花 


(5) 「神奈川県都筑郡黒川村地誌(明治21)」に見る明治初期の黒川の様子

 ・戸数  69戸

 ・人口  415人(男・218人、女・197)

 ・牛馬22頭、荷車10

 ・物産  米 2203斗、糯米 122斗、大麦 150石、小麦 85石、大豆 22

      蕎麦 15石、生糸 30貫、炭 7000、粟 30石、 300

 ・民業 農・32業、商業・2業、農商兼業・35

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 三沢川沿いに広がる水田。黒川の原風景でもある・
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  谷戸からの水を集めて流れる三沢川。
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 住宅地が広がる中、永続した農業の展開をめざして、黒川には二つの営農団地がある、その一つ、黒川東営農団地の風景。




# by sm-116 | 2023-07-18 21:17 | その他 | Trackback | Comments(0)

夏野菜が不作、なぜ?

 市民農園

 今年はなぜか、夏野菜が不出来です。周りの畑に比べて、恥ずかしく感じています。何が原因なのか、わかりません。
ただ、7月のお盆には何とか間に合いました。
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 初めての挑戦で、小玉スイカを育てていますが、蔓の管理はむづかしいですね。いま、ソフトボール大のスイカが6個身を結んでいますが、その後はピンポ玉大くらいまで膨らむと、萎れてしまっています。猛暑のせいでしょうか。まあそれでも6個収穫できれば万歳です。8月10日頃が収穫期になると思います。
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 少々、日にちが遡りますが、7月上旬にテーブルポテトを収穫しました。種を蒔いて育てるジャガイモとのことで、通信販売のカタログを見て取り寄せました。プランターに種を蒔いて育てました。
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 7月上旬に掘り上げてみたら、小さいながらちゃんとジャガイモができていました。まあ、こんな試みも面白いものです。
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# by sm-116 | 2023-07-18 20:53 | 家庭菜園の記録 | Trackback | Comments(0)
 運転免許返納と体調不全のため、うずうずしながらも断念していた釣りに、1年9ヶ月ぶりに出かける。K釣りクラブの例会で、後輩のO氏が自宅まで送迎してくれるということで甘えさせていただいた。
 船宿は金沢八景「新脩丸」。ねらいはカサゴ。会のメンバー6人と他のグループメンバーでほぼ満席状態で、定刻の7時30分に出航。
 釣り場は猿島沖から磯子沖まで移動。水深は、浅いところでは5mほど、深いところで25m暗いか。波も風も穏やか、荷中の猛暑を別にすれば絶好の釣り日和。カサゴのアタリが小気味良い。
釣りはいいなー!楽しかった!_e0019686_20550068.jpg
 いざ出航!久々の釣りに緊張気味。
釣りはいいなー!楽しかった!_e0019686_20560553.jpg
 ところで釣果ですが、後半は潮止まりか苦戦したが、程々の釣果があり楽しめた。15〜32センチのサイズで17尾だった。満足、満足!
 今後も、年寄りでも無理なく参加できるような釣りを探して楽しみたいものだ。



# by sm-116 | 2023-07-06 21:01 | 釣り | Trackback | Comments(0)

by sm-116