新編武蔵風土記稿「黒川村」を読む〜その3
5、神社・仏閣
汁守明神社 除地、詳ならず、村の中央にあり、本社は拝殿へ造りかけて大さ二間に四間巽向なり、祭神を伝へず、本地は不動にて木の立像一尺ばかりなるを安せり、行基の作と云、此社に鳥居を立、例祭八月二十八日なり、村内金剛寺の持、
金剛寺 除地、二畝、村の西にあり、新義真言宗、多磨郡坂浜村高勝寺門徒なり、墨仙山と号す、開山を詳にせず、客殿五間に四間南に向ふ、本尊大日如来、木の坐像にて長一尺五寸ばかり、行基菩薩の作なりと云傳ふ、当寺は祈願のわざを専らにして滅罪を事とせず、八幡社 客殿の東の方にあり、観音堂 同く東の方にあり、如意輪観音にて長一尺ばかり、堂は一間半に二間半なり、毘沙門堂 行基の作にて、長七寸ばかりの坐像なり、
西光寺 除地、村の中央にあり、禅宗曹洞派、片平村修広寺の末山なり、雲長山と号す、開山孤岩伊俊、嘉吉三年(1443年)十月十日寂す、開基は西庵雲長と云人なり、文明元年(1469年)五月二十九日寂す、石階九十八級を登りて客殿を建、九間に六間半巽向なり、本尊は釈迦の像なり、村民の持伝へし古き水帳によれば、観音免と記してあり、其頃の本尊観音なりしが、いつの頃にか、釈迦の坐像長八寸ばかりなるを置、運慶の作なりと云、又今僧坊とて、石薬師を安せし庵をこの辺に立置しを、後廃してかの薬師は当寺の客殿に安す、長一尺許の坐像なり、(風土記・黒川村より)
(1) 汁守神社
汁守神社はその昔、「汁盛」とも書かれていた。その由来は、府中の大國魂神社の末社として「くらやみ祭」の膳部の汁ものを調整したことにあったと伝えられている。隣の真光寺(町田市)には「飯盛神社」があるが、「汁」と「飯」で一対の役割を担ったという。現在の祭神は、保食命(うけもちのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・素戔嗚尊・応神天皇となっている。
創建は不詳だが、天明2(1782)年11月に神像を造立し、再建したと伝えられている。大正3(1914)年、日枝神社外2社を合祀した。
「風土記稿」には、開山は孤岩伊俊、開基は西庵雲長で文明元(1469)年に寂と記されている。応仁の乱の2年後のあたり、地方豪族や土豪が庶民のために寺を建てた時期だという。
本尊は釈迦坐像で運慶の作と伝えられている。境内にある石仏の一つである石薬師の坐像は、川崎市内最古の石仏であり、寛文8(1668)年牛哲によって作られた。令和3年に川崎市の地域文化財に指定された。
(3) 金剛寺(廃寺)
真言宗墨仙(くろかわ)山金剛寺は、上黒川の毘沙門大堂の近くにあったが、今は廃寺となっている。開山・開基を含め、詳細は伝えられていないが、汁守神社の別当も勤めていたと記されている。
明治維新で廃寺となったため、この寺の檀家の人たちは坂浜の高勝寺の檀家になった。金剛寺の境内にあった毘沙門堂には行基の作と伝えられる毘沙門天が祀られていた。
6、明治以降の歩みの中から
(1) 行政上の推移
○「大区、小区」制から郡区市町村制へ。
行政区分の変遷については、明治の初めは目まぐるしく変わり、明治7(1874)年には大区・小区制に改められた。黒川村は第7大区8小区となった。しかし、これも長続きはせず、明治11(1878)年郡区町村制に切り替えられ、かつての村を行政単位として復活させた。これにより、黒川は神奈川県都筑郡黒川村となった。
○柿生村の誕生
・明治22年(1889)、町村制が施行され、黒川をはじめ栗木・片平・五力田・古澤・萬福寺・上麻生・下麻生・王禅寺・早野の10ヶ村で新しい村を作ることになった。新しい村の名前については「柿の生産すこぶる多きをもって」柿生村と名付けられた。なお、岡上村についても、それまでの村のまま柿生村と組合村をつくることとなり、柿生村外一ヶ村組合が誕生した。
こうした動きの中で、黒川は神奈川県都筑郡柿生村(大字)黒川となる。
○川崎市に合併
昭和14(1939)年柿生村外一ヶ村組合は、川崎市に合併する。これにより、黒川は神奈川県川崎市黒川と表示される。なおこれにより、1000年以上続いた「都筑郡」ならびに50年続いた「柿生村」の地名が消えてしまった。「柿生」の名称は、駅名、学校名などに辛うじて残されている。
○多摩区そして麻生区に
昭和47(1972)年、政令都市移行に伴い区制がしかれることになった。黒川をはじめ旧柿生村は多摩区に所属することになったが、川崎市北部の人口増により昭和57(1982)年には麻生区が誕生し、黒川は新区に属し、川崎市麻生区黒川となった。その後、小田急多摩線の開通にともない、区画整理による宅地増もあり、南黒川(1979年)、はるひ野(2006年)という新しい町も誕生した。
○新しい町へ
黒川は、川崎市の最奥地として豊かな自然環境の中で、農業を中心とした生業・暮らしが脈々と続けられていた。しかし、開発・宅地化の波は、そうした姿をも飲み込んで進行した。
昭和49(1974)年、新百合ヶ丘駅が開業し、同時に新百合ヶ丘駅から小田急永山駅まで、小田急多摩線が開通し、五月台・栗平とともに黒川駅がつくられた。同じ年、京王相模原線若葉台駅も開業した。さらに、平成16(2004)年には、小田急多摩線の新駅「はるひ野」が完成する。
○戸数・人口の推移
・「風土記稿黒川村」(1830年頃) 民家51戸
・武蔵国郡改革組合限石高(天保11ー1840) 家数52軒
・壬申戸籍(明治5年) 家数62戸、人口363人
・「神奈川県都筑郡黒川村地誌(明治21年)」
戸数 69戸、人口 415人(男・218人、女・197人)
・大正7(1918年) 戸数は78戸、人口は590人
・昭和62年には315世帯、1034人
・現在の世帯数、人口(2022年6月現在)
4,564世帯、11,373人
内訳 はるひ野(2,804世帯、7,801人)、黒川(1,617世帯、3281人)、南黒川(143世帯、291人)
(2) 学校の歴史・黒川分校
江戸末期には、市川角左衛門私塾があり、石碑が残されている。それによると、「(市川翁は)30年にわたり黒川村で教育に尽くし、この村から字の読めない人、書けない人を無くした。」とある。明治5年にこの市川塾に通っていたのは男子30人、女子10人だった。
明治5年、学制が公布され、市川塾は「黒川学舎」となったが、引き続き市川角左衛門さんが先生として子供たちの教育に当たる。明治8年には、黒川学舎という名前が小学黒川学校となる。明治12年には教育令が公布され、黒川村立黒川学校となる。明治14年には学校は市川宅から立川宅に移る。さらに明治20年には、汁守神社裏に学校が新築された。明治22年には柿生村が誕生し、学校の名前は柿生村区立黒川学校と改められた。そして、明治25年には、校名が柿生村区立尋常黒川小学校と変わり、初めて小学校と呼ぶようになった。高等科に進む子どもたちは鶴川の高等小学校に通っていた。
明治40年には就学年限が6年になったが、5,6年生は尋常義胤小学校(柿生小学校の前身)に通うこととなった。大正2(1913)年には尋常黒川小学校は廃校となり、義胤小学校黒川分教場となった。大正15年に黒川と栗木の境の山の上に校舎を新築、栗木の子どもたちも黒川分教場に通うことになった。
昭和16年、国民学校令により、川崎市柿生国民学校黒川分教場と名を変えた。戦後、昭和22年には川崎市立柿生小学校黒川分校に改められ、校舎も増築され6年生までがここで学んだ。柿生小学校が現在地に移り、またバスの開通などもあり、昭和38年には4年生からは本校に通うこととなり、黒川分校は1年生から3年生までが通学することとなった。都市化の波は、黒川や栗木地域にも押し寄せ、昭和58年には新しい学校・栗木台小学校が開校し、「黒川学舎」から109年、分校としての36年の歴史にピリオドが打たれることとなった。
(3) その他
・柿生発電所
川崎市の水道は、相模川から取水され、導管は黒川を通過するが、字広町に急下水路水槽が設けられており、その落差を利用した県企業庁の発電所がある。
・民藝俳優座
字宮添には、故宇野重吉氏で有名な民藝俳優座の稽古場があり、市民との交流も行われている。
また、同地域には読売日本交響楽団の練習場、日本オペラ振興会の稽古場などもあり、芸術・文化の集積も見られる。
・マイコンシティーⅡ(黒川駅周辺)
昭和63(1988)年川崎市により整備完了。情報・電子産業の研究開発拠点をめざすとともに、京浜工業地帯全体の発展をめざし、ハイテク企業の積極的誘致と研究開発機能集積が行われた。
*参考資料
1、「ふるさとは語る」ー柿生・岡上のあゆみー 1989年、柿生郷土史刊行会
2、「いなだ子ども風土記・農業編」1969年 いなだ図書館
3、「川崎史話」上・中・下 1968年、小塚光治
4、「柿生村・岡上村 郷土史」(再版) 1969年、柿生小学校
5、「柿ふる里」 2020年、ふる里を語る柿岡塾
6、「麻生 郷土歴史年表」 2009年、小島一也
7、「川崎市多摩農業共同組合史」 1969年、川崎市多摩農業協同組合
8、「川崎の町名」 1991年、日本地名研究所編、川崎市
9、「川崎市史」 1968年、川崎市役所
10、「川崎市史 資料編1」1988年、川崎市
11、地域読本「ふるさと」 2002年11月8日 栗木台小学校
12、「ふるさと柿生に生きて」〜激動80年の歩み〜 2006年3月 柿生昭和会
13、「地図でたどる思い出のふるさと〜柿生・岡上の歩み〜」 2008年4月 柿生・岡上百年会
14、「くろかわ」 平成18年5月28日 黒川特定土地区画整理事業地権者会
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